悟り( 奇跡の脳 )
自分探しという愚行からの帰還。
「未来の自分のためなら、今の自分を棄てる覚悟がある」。「奇跡の脳」の18章にて引用されている、アインシュタインの言葉だそうです。名言ですが、これは仏教者が"説法"で唱える内容と示すものは同等です。
涅槃という状態( 宇宙や天国・地獄、もしくは魔境でも )からの"帰還"が大切では? もしも悟りを目指すなら、悟りからの帰還が問われると思います。宇宙に例えると、月に到達して、でも、月に居座るのではない。
地球に帰還してこそ月に到達した意義がある。帰還というプロセスをふまえることが重要となるのでは。テイラー博士に例えるなら、二年目より行われた検証作業がそれに当たると思います( 詳しくは原書を参照 )。
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テイラー博士も述べています、何故に涅槃から出ねばならぬのかと? 涅槃を失うのが嫌だとも述べています。でも、あえて涅槃を出た故に現在の博士があるのです。禅者は唱えます、"悟りを捨てるのが悟り"だと。
たとえ悟りに在ったとしても、在るままでは現代の地球では使い物にならない。地上へ帰還する必要がある。入鄽垂手。禅者は"エデンから出ろ"とも唱えます。エデンなる楽園は人の住む場所ではないと云う。
無住処涅槃。涅槃なる楽園に創造性はない。また、禅においては全ての者は"すでに悟っている"と多々説かれます、この比喩も、帰還を( そのプロセスを )指していると推測する( 目指すのみでは危ういはずで )。
以前から、たとえば"悟り"や"自分探し"、また、"神秘体験"や"霊"なるものごとを求める姿勢を軽んじていました。そもそも"自分"などというものがどこにあると考えていたのです( 禅に興味を抱く以前から )。
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それは現在も同じですが、自らも魔を観たために考え方の筋道が変化しました。ぶっちゃけ、悟れるならば悟ってみろと、また、自分探しがしたいのならば探してみろと。霊を信じるならば霊と対峙すればよい。
でも、必ず"帰還"してくださいね。帰ってきてください。悟りや涅槃などを得る覚悟より、帰還する覚悟こそ大切で、もしも悟りや涅槃へと囚われるなら、それは魔境と同等では、問われるものは"社会性"となる。
たとえ夢なる世俗でも、そこにおいてのみ我が成立する。世俗という社会の側は悟りなど認めない、逃避しえない。そもそも"我"というものがどこにある? "You're Nobody 'Til Somebody Loves You"だと思う。
必ずや帰還を望む方がいる。否、そんな者はいないと、ならば帰還を迎える側となればよい。そのような方こそが帰還を受け入れる資質があると思います。帰還する場さえ失い、帰還を受け止める側にさえ在れないと。
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そこまでも追い詰められたのであれば、なにを今更ためらいますか、すでに怖れるものなどなにもないのです。そもそもなにかを求めるという姿勢には自己矛盾が発生する( 故に悟りを捨てるはず )。
大悟にもなく解けるものでもないですが、 心理学者ヴィクトール・E・フランクル[Viktor Emil Frankl]氏に学ぶなら、悟りは追求できません。悟りを求めると悟れない。人の心はそのようにできている。
悟りの否定ではないのです。追求する姿勢に自己矛盾はあるとしても、あえて求めなければなんらかを見出せなかったはずで、道に迷ったからこそ見出せた世界もあると思います。
さて、インディアンの長老達の口述をまとめたものに、「ネイティブ・アメリカン - 叡智の守りびと」というが本がある( ハービー・アーデン/スティーブ・ウォール著/舟木アデルみさ訳|築地書館 )。
その中に"叡智を授かる"という話しがあります。引用は控えます。その叡智とは、まさに悟りで、悟りとはなにかが語られています。無論仏教などでの悟りをふまえるものではない、ただ、一読の価値がある。
引用及び参照:「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著/竹内薫訳|新潮社。
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